「私的正信偈(しょうしんげ) ~まことのしんじんの歌~」
※「正信偈」…親鸞(しんらん)が著(あらわ)した『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の「行巻(ぎょうの
まき)」に書かれた「偈(げ。韻を踏んだりリズムを整えた韻文。うた)」。『教行信証』(詳しい書名は
『顕浄土真実教行証文類』)は、浄土真宗で一番大切な経典(お経)。なお、「教行信証」の書名の
由来は、浄土真宗の仏教語の「四法」(「教」…仏陀の教え。「行」…「教」に基づく修行。「信」…「行」
の働きを信じること。「証」…「行」と「信」によって得られる成果)。
※「しんじん 信心」とは、「一人ひとりの個人の信仰心」のことではないので要注意。
それは、「阿弥陀仏の本願」のこと。「生きとし生けるものを救いたい。救うぞ」という願いや誓いで、
「それがなしとげられるまでは、私(阿弥陀仏と呼ばれる仏になる前の、法蔵という名前の修行者)は
仏になりたくない。ならない」という決意や覚悟とワンセットのもの。
※参考文献:『書いて学ぶ親鸞の言葉 正真偈』(東本願寺出版 2011)、『新版 うちのお寺は浄土
真宗』(藤井正雄 総監修、双葉社 2024)、『お経 浄土真宗』(早島鏡正・田中教照 編著、講談社
1983)、『正信偈』(東本願寺出版 1979)、『浄土思想 釈尊から法然、現代へ』(岩田文昭 著、中公
新書)、『唯信鈔文意(もんい)』(安満利磨<あまとしまろ> 著、ちくま文芸文庫)、『歎異抄にであう』
(安満利磨 著、NHK出版)、『正真偈講義』(梯實圓<かけはしじつえん> 著、本願寺出版社 2023)、
『真宗勤行集 浄土真宗本願寺派 遠慶山 光楽寺』(百華苑 編・刊)など
※1文(7つの文字による漢文を2行)ごとに、メロディーをつけた。3拍子のワルツ風。
ギター演奏はストロークで↓・↓↑・↓↑(ジャーン・ジャカ・ジャカ)と↓(ジャーーン)。
※第1文の楽譜

第60文(ラスト)へ
第1文 原文「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
きみょう むりょうじゅ にょらい なむ ふかしぎ こう
はかりしれなく生きる阿弥陀仏(あみだぶつ)とそのまことの教えを敬います。また、それら二つの「おかげさま」
(他力)が発する神秘的な光を敬います。
※姿・形をもつ人間としての阿弥陀如来は、「方便法身(ほっしん)」で「色(しき)」。見ることも触れることもできない
「そのまことの教え」は、「法性(ほっしょう)法身」で「空(くう)」。その二つは対立するものでなく、「同じ一つのものの
二つの側面」。
そうとらえると、「正信偈」のはじまりのところに「色即是空、空即是色」の大乗仏教の考え方が示されていることがわかる。
ちなみに、「体験や実践の裏付けがあり、ものごとをあれとかこれとかと分けずにまるごととらえる心のはたらき」のことを
「無分別智」という言葉で表現している本が、『釈迦 人と思想』(副島正光 著、清水書院)。その本では、「般若」
(プラジュニャー)イコール「無分別智」としていて、あの「般若心経」の翻訳も、結びの言葉「ボジ(菩提)ソワカ」を
「かくて無分別智の完成の心は終わった」としている。
ちなみに「無分別智」の反対言葉が「分別智」。「体験や実践の裏付けがなく、ものごとを一つの全体としてとらえずに
あれこれ分解して分析することで、かえってものごとの本質を見誤ってしまうこと。なるほど、「分別くさい」とか「分別顔」は
マイナスイメージの言葉。
~♪~ 永遠(とわ)に生き 光輝く 阿弥陀と教え 敬いましょう ~♫~
第2文 原文「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」
ほうぞうぼさ いんに じ ざい せじざいおう ぶっしょ
阿弥陀仏が、法蔵(ほうぞう)という名前で、菩薩(ぼさつ。仏になることに「挑み続ける」存在)としての修行を
頑張っていらした時、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という先生のもとで学ばれました。
~♪~ 法蔵は 菩薩と呼ばれ 世自在王 仏(ほとけ)に学ぶ ~♫~
第3文 原文「賭見諸仏浄土因 国土人天之善悪」
とけん しょぶつ じょどいん こくど にんでん し ぜんまく
そこで、いろんな仏がそれぞれどのような因果の法則で悟りを開かれたのか、それらの仏の国々(仏土。浄土)の
優劣や、それらに往生した(往って生まれた)人間たちの善悪がどのようなものなのかを見きわめなさりました。
~♪~ 仏らの 悟った訳や 国や人 善し悪し見分け ~♫~
第4文 原文「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」
こんりゅう むじょう しゅしょうがん ちょうほつ けう だいぐぜい
そして、この上なく大切な願い(「全ての人々を救いたい」という願い)を立てられて、ありがたく広大な誓い
(「全ての人々が救われるまで、私は仏にならない」という誓い)をおこされたのです。
~♪~ 大切な 願いをたて 広大な 誓いおこす ~♫~
第5文 原文「五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方」
ごこう しゆい し しょうじゅ じゅうせい みょうしょう もん じっぽう
また、はかりしれない長い時間の思いや考えが込められた、この願いと誓いを受け取られ実行されて、世界中の
すべての仏たちに、阿弥陀仏の名前を誉め讃えてもらうようになることも、重ねてお誓いなされました。
※この「すべての仏たちに、私の名前を誉め讃えてもらう」には、お釈迦様が誕生された際に言われたとされる、
「天上天我唯我独尊」に通じる覚悟や使命感の強さを感じる。まわりからどれだけ「自意識過剰」とか「オレ様発言」と
非難されたとしても、すべての人々を救うためにはすべての人々に知られる必要があるのだから、「やるべきことをやる」
「有言実行」という不退転の宣言・宣誓なのでは。その心や行き方の姿勢そのものに救われる、英雄(ヒーロー)そのもの。
~♪~ 思ってきた 願いと誓い わが名も 世界に広め ~♫~
第6文 原文「普放無量無辺光 無碍・無対・光炎王」
ふほう むりょう むへんこう むげ むたい こうえんのう
阿弥陀仏が広く放たれる光は、「これからもずっと輝き続ける光・すべてを平等に照らす光・何にもさまたげられない光・
比べるもののない光・炎の王のような光・
~♪~ 阿弥陀仏 放つ光は 永遠で さまたげのない ~♫~
第7文 原文「清浄歓喜智慧光 不断難思無称光」
しょうじょう かんぎ ちえこう ふだん なんし む しょうこう
きよらかな光・よろこびの光・智慧の光、断えることのない光・人知を超えた光・言葉でいいあらわせない光・
~♪~ きよらかで よろこびあふれ 絶え間なく 言いあらわせない ~♫~
第8文 原文「超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」
ちょうにちがっこう しょう じんせつ いっさいぐんじょう む こうしょう
太陽や月を超えた光」です。この「十二光」が全世界を照らし、すべての生きとし生けるものがその光につつまれます。
~♪~ 日の光 月の光超え なにもかも 照らしてつつむ ~♫~
第9文 原文「本願名号正定業 至心信楽願為因」
ほんがん みょうごう しょうじょうごう ししん しんぎょうがん にいん
「南無阿弥陀仏」。このように本願の名号を称(とな)えることは、往生(おうじょう。浄土に往ってそこで生まれること。
輪廻からの離脱としての解脱)するための正しい行いであり、至心信楽(しんぎょう)の願(阿弥陀仏の四十八本願の
第十八願。「私が仏になるときには、全ての人が自分自身に備わっているまことの心に至り(至心)それを信じ
楽(ねが)って(信楽<しんぎょう>)往生するために念仏するならば、必ずそれを成就させよう。それができないなら、
私は仏にならない」という願いと誓い)がその原因としておおもとにあります。
~♪~ 念仏は 正しいことで 仏の願い それをもたらす ~♫~
第10文 原文「成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」
じょうとうがく しょう だいねはん ひっし めつどがん じょうじゅ
すべての人々が、仏と同等の悟りをひらいて、涅槃(ねはん。煩悩<欲望への執着に苦しむこと>の火が消えた
おだやかさ)の境地に入ることができるのは、必至滅度の願(第十一願。「私が仏になるときには、私の浄土
<注:仏の数だけ仏国土である浄土が存在し、阿弥陀仏の浄土もその中の一つ>に往生した全ての人が
仏になれるようにしよう。それができないなら、私は仏にならない」という願いと誓い)が成就しているという証し
なのです。
~♪~ 人すべて 救われるのは 仏の願い なりたつあかし ~♫~
第11文 原文「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
にょうらい しょい こうしゅつせ ゆいせ みだほんがん かい
お釈迦様がこの世に現れなさったのは、ただ阿弥陀仏が受け取られ実行された、海のように広くて深い本願について
説明されるためなのです。
~♪~ お釈迦様 生まれたわけは 阿弥陀仏 願い説くため ~♫~
第12文 原文「五濁悪時群生海 往信如来如実言」
ごじょく あくじ ぐんじょうかい おうしん にょらい にょじつごん
社会悪や個人悪などで濁ってしまっている今の時代に生きるすべての人々よ、お釈迦様が説かれるまことの
ことばとしての阿弥陀仏の本願を信じ、ともに進んでゆきましょう。
~♪~ 悪濁る 世の人たちよ その言葉 信じ進もう ~♫~
第13文 原文「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」
のうほつ いちねん きあいしん ふだんぼんのう とく ねはん
阿弥陀仏の本願を喜び愛する心がひとたび生まれたら、煩悩を断つことができなくても、涅槃の境地に入る
ことができます。
~♪~ そんな心 よろこび愛し 煩悩も そのまま涅槃 ~♫~
第14文 原文「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」
ぼんしょう ぎゃくぼう さい えにゅう にょうしゅうすい にゅうかい いちみ
凡夫(ぼんぷ)も聖者(自力や難行・苦行により悟りを開こうとして頑張っている人)も、五つの大罪(父・母・
修行僧を殺す。修行僧の集まりの和を乱す。仏の身体から血をながす)を犯した人も、正しい仏の教えを誹謗したり
無関心でいる人も、回心すれば誰もが同じく仏になることができます。それはあたかも、いろんな川を流れる
いろんな水が、海に入れば同じひとつの塩の味に溶け合うように。
~♪~ ただの人 聖人・悪人も 心変え そのまま仏 ~♫~
第15文 原文「摂取心光常照護 已能雖破無明闇」
せっしゅ しんこう じょう しょうご いのう すいは むみょうあん
すべての人々を救う願いや誓いを抱かれた阿弥陀如来の心の光は、いつでも私たちを照らし、そして護って
いただいています。その光が、もうすでに私たちの無明(欲望にとらわれた煩悩のせいで、ほんとうのことが見え
なくなっている状態)の闇を破っていただいているのに、
第16文 原文「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」
とんない しんぞう し うんむ じょうふく しんじつ しんじんてん
私たちの貪欲さや憎悪心が雲や霧になって、いつも真実信心(阿弥陀仏の本願)の空を覆い隠して
いるのです。
第17文 原文「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」
ひにょ にっこう ふく うんむ うんむしげ みょう むあん
たとえばお日様の光が雲や霧に覆われていても、その雲や霧の下にも阿弥陀仏のまことのこころが
届いていて、真実信心(阿弥陀仏の本願)の空と同様、この地上に闇は無く、明るいようなものです。
第18文 原文「獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣」
ぎゃくしん けんきょう だいきょうき そくおう ちょうぜつ ごあくしゅ
信心(阿弥陀仏の本願)を受け取って仏法に出会い、それを敬って大いによろこぶ人になれば、
すぐに(「今、ここ」から横っ飛びに。時空を超越して)五つの世界(天道・人道、畜生道・餓鬼道・地獄道)での迷いを
断ち切ることができるのです。
第19文 原文「一切善悪凡夫人 聞信弥陀弘誓願」
いっさい ぜんまく ぼんぷにん もんしん みだ ぐぜいがん
善人も悪人もなくどんな人であっても、阿弥陀如来の広大な誓いと願いを聞いてそれを信じれば、
第20文 原文「仏言広大勝解者 是人名分陀利華」
ぶつごん こうだい しょうげしゃ ぜにん みょう ふんだりけ
お釈迦様はその人のことを、「広大な真理をつかみとった者」として、「汚れた泥の中から咲いた、美しい白い
蓮の花」と名づけられます。
※「汚れた泥」は、美しい白い蓮の花が咲くのに必要。その「美しい白い蓮の花」は、泥によって汚れることはない。
第21文 原文「弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生」
みだぶ ほんがん ねんぶ じゃけん きょうまん あくしゅじょう
阿弥陀仏の本願( ex. 至心信楽<しんぎょう>の願<阿弥陀仏の四十八本願の第十八願。「私が仏になるときには、
全ての人が自分自身に備わっているまことの心に至り、それを信じ楽<ねが>って往生するために念仏するならば、
必ずそれを成就させよう。それができないなら、私は仏にならない」という願い)や念仏は、ほとけのまことを否定する
まちがったものの見方・考え方でおごり高ぶっている人々にとって、
※「ほとけのまことを否定するまちがったものの見方・考え方」には、自力だけで悟ろうとする教えも含まれる。
第22文 原文「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」
しんぎょう じゅじ じん になん なんちゅうしなん む かし
それ(阿弥陀仏の本願や念仏)を信じ楽(ねが)って受け取り、維持することは、とても難しい。難しいことの
中で一番難しく、これほどの難しさは他にありません。
第23文 原文「印度西天之論家 中華日域之高僧」
いんどさいてん し ろんげ ちゅうかじちいき し こうそう
西の国インドと中国、そして日本の仏教学者や高僧の方々が、
※インドの龍樹や中国の曇鸞(どんらん)、そしてこの日本の法然などの「七高僧」のこと。
第24文 原文「顕大聖興世正意 明如来本誓応機」
けん だいしょう こうせい しょうい みょう にょらい ほんぜい おうき
お釈迦様が何のためにこの世に出現されたかということや、阿弥陀仏の願いや誓いが私たち(凡夫)の様々な姿や
力のそれぞれすべてに応じたふさわしいものであることを、あきらかにしてくださっています。
第25文 原文「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺」
しゃか にょうらい りょうがせん いしゅう ごうみょう なんてんじく
お釈迦様は楞伽山で、多くの人々のために次のような教えを説かれました。「南インドに、
※「楞伽(りょうが)」は、今の国名スリランカの語源「ランカー」。
第26文 原文「龍樹大士出於世 悉能摧破有無見」
りゅうじゅ だいじ しゅつとせ しつのう ざいは うむけん
七高僧の一人である龍樹(ナーガール・ジュナ)という高僧が登場して、存在すること(例えば「色。しき」)と
存在しないこと(例えば「空。くう」)の両極端にとらわれるものの見方・考え方をことごとく打ち破るだろう」と。
※存在すること(例えば「色。しき」)と存在しないこと(例えば「空。くう」)の両極端について。両方あわせて「有無の見
(うむのけん。有無の邪見)」。有の邪見とは、「有るということ」にとらわれて無常を直視できないこと。無の邪見とは、
「無いということ」にとらわれて因果や縁起の法則を否定すること。どちらも悟りを妨げるマイナス要素。
第27文 原文「宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽」
せんぜ だいじょう むじょうほう しょう かんぎじ しょう あんらく
そして「同じ大きな乗り物に乗るように、一人ひとりの悟りがともに現世を生きる他者にも反映して、すべての人々を
救う)というこの上ない教えを説き明かし、歓喜地(かんぎじ)という不退転の地位(菩薩として生きていく道を、もう後戻り
しないという境地)に入り、命尽きた後は、阿弥陀仏の安楽な浄土に生まれるだろう」と。
第28文 原文「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」
けんじ なんぎょう ろくろく しんぎょう いぎょう すいどうらく
この龍樹菩薩は、難行(苦行などの修行によって悟りを開こうとすること。自力だけに頼ること)とは陸の道を歩くように
苦しいことを明らかに示され、易行(阿弥陀仏の本願<すべての人々を救うという願いと誓い>を信じて正しく生きること。
他力を中心にすること)が川を船で進んでいくように楽しいことを信じ、願わせてくださいました。
第29文 原文「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定」
おくねん みだぶ ほんがん じねん そくじにゅう ひつじょう
そして、「阿弥陀仏の本願を思い続けると、自然とすぐに、『私もいつか必ず仏になる。それはもう予め
決定されている』と信じることができる。
第30文 原文「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」
ゆいのう じょうしょう にょうらいごう おうほう だいひぐぜい おん
ただいつでも『南無阿弥陀仏』と称えることで、大いなる慈悲の心によりすべての人々を救うという
阿弥陀仏の誓いへの恩返しをしなさい」ともおっしゃいました。
第31文 原文「天親菩薩造論説 帰命無碍光如来」
てんじんぼさ ぞうろん せ きみょう むげこう にょらい
同じく「七高僧」の一人で、「天親菩薩」と呼ばれる世親(せしん)が、様々な仏教の経典を研究され
浄土論(往生論)を立てられて、「無碍(むげ)光如来である、阿弥陀仏を敬いましょう」と説明され、
第32文 原文「依修多羅顕真実 光闡横超大誓願」
えしゅたら けん しんじ こうせん おうちょう だいせいがん
経典の『大無量寿経』にもとづいて、まことの教えが易行・他力であることを明らかにされることによって、
一つずつ積み上げたり回り道をせずに、苦しみや迷いを一度に乗り越えるための大いなる誓いと願いを、
広く伝えてくださいました。
第33文 原文「広由本願力回向 為度群生彰一心」
こうゆ ほんがんりき えこう いど ぐんじょう しょう いっしん
そして、「広く阿弥陀仏の本願力のはたらき(人々に救いの働きを差し向けて、浄土に迎えとること)によって、
生きとし生けるものが救われるように」とお考えになり、「まことのしんじん」を「一心」と言い表わされました。
第34文 原文「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」
きにゅう くどく だいほうかい ひつぎゃく にゅう だいえしゅ しゅ
また、「海のように満ちた阿弥陀仏の功徳(くどく。恵み)に帰依(きえ。信じて頼りにすること)すれば、
必ず浄土に往生(おうじょう。往<い>って生まれること)して、仏の教えを受ける人々の集まりに加わる
ことができます。そして、
第35文 原文「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」
とくし れんげぞう せかい そくしょう しんにょ ほっしょう しん
美しい白い蓮の花が咲いている浄土に往生できたら、すぐに、阿弥陀仏のまことの教えのまま生きる
仏そのものになることができて、
※「阿弥陀仏のまことの教えのまま生きる仏そのもの」とは、現象(色や有)の背後にある真実性・人間のはからいを
超えた本来・真実の姿のこと。
第36文 原文「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」
ゆう ぼんのうりん げん じんづう にゅう しょうじおん じ おうげ
浄土から現世に還ってきたら、煩悩(欲望への執着に苦しむこと)が森林のように密集する場所であったとしても、
そこで遊ぶことができて仏のちからをあらわし、生きること・死ぬことの迷いが草原のように密生していても、
一人ひとりの様々な姿や力のそれぞれすべてに応じた救いの力を示すこともできるのです」とおっしゃいました。
第37文 原文「本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼」
ほんじ どんらん りょうてんし じょうこう らんしょ ぼさ らい
高僧の曇鸞(「七高僧」の一人)は、梁という国(都は今の南京)の皇帝が、常に曇鸞のいる場所
(北魏という国。都は洛陽)に向かって、「菩薩」と呼び掛けて礼拝(らいはい)したお方です。
第38文 原文「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」
さんぞうるし じゅ じょうきょう ぼんしょう せんぎょう き らくほう
(インド出身の)菩提流支(ぼだいるし)三蔵から浄土の教えを授かったので、道教(老子の道家思想が
ルーツの宗教)の経典を焼き捨てて、浄土の教え(「楽しい国」としての阿弥陀仏の浄土に往生すること)を
「人としての本来のあり方として、それに回帰」しようとなされました。
※曇鸞は、「仏道を極めて人々を救うためには、自分が不老不死になる必要がある」と考えて、この道教を学んで
いた。
第39文 原文「天親菩薩論註解 報土因果顕誓願」
てんじんぼさ ろん ちゅうげ ほうど いんが けん せいがん
そして、天親菩薩と呼ばれる世親(せしん)の『浄土論』を注釈して、浄土に往生するという結果が、
阿弥陀仏の本願を原因とすること、つまり自力ではなく他力によって往生できるということを明らかにされました。
第40文 原文「往還回向由他力 正定之因唯信心」
おうげんえこう ゆ たりき しょうじょうしいん ゆい しんじん
また、「浄土に往(い)ってそこで『天の仏』になったり、そこからこの世に還(かえ)って来てたくさんの人々を
救う『野の仏』になるのも、阿弥陀仏の本願力のはたらきによるものです。だから、私たちが浄土に往生する
ことを正しく定める原因になるのは、『まことのしんじん』(一人ひとりの信仰心ではなく、阿弥陀仏の本願その
もの。または、個人の信仰心と弥陀の本願のコラボレーション)だけなのです」とおっしゃっいました。
第41文 原文「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」
わくぜんぼんぷ しんじん ほつ しょうち しょうじ そく ねはん
そして、「煩悩に染まった人でも、そのような『まことのしんじん』に気がつけば、生きること・死ぬことの迷いや
苦しみをもったままで往生できるのだと知らされて、
第42文 原文「必至無量光明土 諸有衆生皆普化」
ひっし むりょうこう みょうど しょう しゅじょう かい ふけ
はかりしれない光明に輝く浄土に必ずたどり着いた後で、すべての生きとし生けるものを教え導く仏になるのです」
とおっしゃいました。
第43文 原文「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」
どうしゃく けつしょうどう なんしょう ゆいみょう じょうど か つうにゅう
高僧の道綽(七高僧の一人)は、(自力で難行の)聖道の教えでは悟りを開くことは難しく、ただ(他力で易行の)
浄土の教えから入って悟りを開くしかないことを明らかにされて、
第44文 原文「万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」
まんぜんじりき へん ごんしゅ えんまんとくごう かん せんしょう
たくさん善いことをしたり、勤行や修行に努めるという自力で悟ろうとすることをしりぞけて、仏の徳がまどかに
充ち満ちた、「南無阿弥陀仏」の名号をひたすらに称えることを勧められました。
第45文 原文「三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引」
さんぷさんしん け おんごん ぞうまほうめ どう ひいん
そして、三つの正しい信仰のすすめと三つの不信仰のいましめについて、丁寧に教えてくださいました。また、
「阿弥陀仏は、仏教が形だけの行いになっている像法の時代や、その行いさえも無くなって教えだけが残った
末法の時代、そして仏の教えが滅びる時代になったとしても、すべての人々を慈悲の心で浄土にみちびいて
くださるんだよ。
第46文 原文「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」
いっしょうぞうあく ち ぐぜい しあんにょうかい しょう みょうか
私たちは一生悪いことばかりしていても、阿弥陀仏の本願に出会うと、心も体も安らかになる浄土の世界に
導かれ、そこですばらしい悟りをいただけるのです」とおっしゃっいました。
第47文 原文「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」
ぜんどう どくみょう ぶつしょうい こうあい じょうさん よ ぎゃくあく
高僧の善導(七高僧の一人)ただお一人が、お釈迦様のまことの心をあきらかにされました。それは、
「お釈迦様は、心を集中させて善をなす「心の人」とか心が散らかったまま善をなす「行いの人」のような自力で往生しよう
とする人達と、『五逆』『十悪』と呼ばれる悪いことをせずには生きていけない人達の、どちらの人々にもあわれみの心を
いだかれた」ということです。
第48文 原文「光明名号顕因縁 開入本願大智海」
こうみょうみょうごう けん いんねん かいにゅう ほんがん だいちかい
そして、阿弥陀仏の智慧や慈悲の光と、「南無阿弥陀仏」と称えることと、浄土に往生する因縁の関係を
明らかにされました。また、「阿弥陀仏の本願の大いなる智慧の海が開かれ、それに入っていけば、
第49文 原文「行者正受金剛心 慶喜一念相応後」
ぎょうじゃ しょうじゅ こんごうしん きょうき いちねん そうおう ご
念仏を行う者は、阿弥陀仏から、金剛石のようなゆるぎない確かな心をいただきます。そして、阿弥陀仏の
本願という信心とそれに応える一人ひとりの信仰心が合わさり、一つの「まことのしんじん」になった後に、
第50文 原文「与韋堤等獲三忍 即証法性之常楽」
よ いだい とうぎゃく さんにん そくしょう ほっしょう し じょうらく
あの韋堤(いだい 韋堤希<いだいけ> ヴァイデーヒー。マガダ王妃)と同じように、三つの心(阿弥陀仏の
本願に感謝する心・本願によって苦しみや迷いから解き放たれた心・本願によって浄土に往生することを
信じる心)を得て、すぐにでも、阿弥陀仏のまことの教えのまま生きる身となり、仏のように常に変わることの
ないよろこびに満たされるのだよ」とおっしゃいました。
第51文 原文「源信広開一代教 偏帰安養勧一切」
げんしん こうかい いちだいきょう へんき あんにょう かん いっさい
この日本に登場した高僧の源信(七高僧の一人)は、お釈迦様一代の教えを広く探究して、心も体も
安らかになる浄土を「人としての本来のあり方として、それに回帰」して、そのことを全ての人々にお勧め
になりました。
第52文 原文「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」
せんぞうしゅうしん はん せんじん ほうけにど しょう べんりゅう
そして、念仏や他力に心をつくすことの深さと、念仏以外の修行や自力に心をつくすことの浅さを判断し、
浄土の世界と方便の世界(人々を浄土の教えに導くための仮の世界)とを正しく分けてくださいました。
第53文 原文「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中」
ごくじゅうあくにん ゆい しょう ぶ がやく ざいひ せっしゅちゅう
また、「たとえ極悪人であっても、ただひたすらに『南無阿弥陀仏』と称(とな)えましょう。私もまた、
阿弥陀仏の本願によって救いを約束されている一人なのに、
第54文 原文「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」
ぼんのう しょうげん すい ふけん だいひ むけん じょう しょうが
煩悩(様々な欲望への執着)が心の目をさまたげて、阿弥陀仏の本願が見えなくなっています。それでも、
その大いなる慈悲の光は、飽きてしまったり疲れてしまったりすることなく、いつも私を照らしているのです」
とおっしゃいました。
第55文 原文「本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人」
ほんじげんくう みょう ぶっきょう れんみん ぜんまく ぼんぷにん
私の師、源空上人(法然)は、仏のおしえを明らかにされ、善人も悪人もなく全ての人を憐れまれました。
第56文 原文「真宗教証興片州 選択本願弘悪世」
しんしゅうきょうしょう こう へんしゅう せんじゃくほんがん ぐ あくせ
そして、まことの仏の教えをこの世界の片隅にる日本国におこされ、「法蔵菩薩(仏としては阿弥陀仏)は、
ただ念仏することのみを選び取って、生きとし生けるものを救う本願を立てられたのだよ」という考え方を
明らかにされて、この悪がはびこる世の中に広められたのです。
第57文 原文「還来生死輪転家 決以疑情為所止」
げんらい しょうじ りんでんげ けっち ぎじょう い しょし
また、「生きること・死ぬことの迷いや苦しみに、いつも戻ってきてしまうのは、阿弥陀仏の本願への疑いが
心にとどまっているからなのだよ。
第58文 原文「速入寂静無為楽 必以信心為能入」
そくにゅう じゃくじょうむい らく ひっち しんじん い のうにゅう
だから、すみやかに涅槃寂静の心の平安をつかむには、必ず『まことのしんじん』(弥陀の本願の心と私たち
自らの信仰心のコラボレーション)が必要なのだよ」とおっしゃいました。
第59文 原文「弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪」
ぐきょう だいじ しゅうし とう じょうさい むへん ごくじょくあく
経典を広めた七高僧(龍樹・天親<世親>が「大士」。他の5人が「宗師(本師)」)の皆様は、はてしなく
ひどい悪で濁りきった世界を救ってくださっています。
第60文 原文「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」
どうぞく じしゅう ぐ どうしん ゆいか しん し こうそうせ
僧(お坊さん)であっても俗人(普通の人)であっても、ともに今、この世界にある人々よ。心を合わせてただひたすらに、
私(親鸞)がこの「正信偈」でここまで紹介させていただいた、これら七人の高僧の教えを信じ、ともに生きてゆきましょう。
第1文(冒頭)へ
![]()